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思ったことを書き連ねます。絵日記はもう時間の都合上諦めることにしました…。申し訳ないです。

私の後先の未来が怖い。

今日は、マリオオデッセイの発売から四年経過したり、ピクミンブルームの配信予定があったりと、いつもならこんなに喜ばしいニュースでいっぱいの一日だった。

…そんなはずだったというのに、今回の天気が曇りであったように、俺の心もまた、まるで雨が降っていたかのように曇っていた。

明確に言うと、俺はしんどかった。俺の心に雨が降っていた。

今日、仕事をやっている中で、ふとこんなことを考えるようになってしまった。

お父さんはあとどれくらいで、生きていくことができるのだろう。と。

お父さんは、こんな障害を持ったバケモノみたいな人間の自分を唯一いつまでも理解してくれている。

今となってはもう、70歳以降の時をこれからも生きていくように成り果てた長寿たるお方だ。

だがそれでも、こんな複数の仕事を抱え込んだ忙しい時間の中生きているにも関わらず、彼は、自分が辛くて悲しいこと、もう限界で感情的に暴走してしまいそうなことを、きちんと聞いてその俺の悩みに応じて行動したり対応してくれたり、俺の中に患っている広汎性発達障害という、呪いのような障害の理解に少しだけでも励もうとしてくれている。

それ故に、自分にとっては、私がいつも常に感謝と思いやりを持つべき対象であるかけがえのない存在で、たくましい老木のような存在の人間であり、英雄の如く偉大で素晴らしい父親なのだ。

人間は、最大で平均年齢寿命としては80〜90歳あたりで生きていくのが、人間としての生命の活動の一般的な限界とされている。

岩田聡社長…、すぎやまこういち氏…、時間が経過するうちにさまざまな偉大なる人が、例えどれだけ偉大な功績をこの世に残すことができたとしても、流れゆくことしかできないこの世の時間の中で歳や時間を得ていく内に、突然間も音もなく、その人のこれからの生存の期待を理不尽に裏切るが如く、病や環境に蝕まれ、そして漠然と死んでいく。

それは、人間として、一つの生物としての存在の生命のゆく人生の運命の終点、一つの生物としての時間の運命の末路であるが故に、自分や他人ではどうしようもない物事だということは、私にはわかる。

かつて、父さんは、ロボットを作ろうだなんて子供らしいことを考えていたこんな自分に、あることを教えてくれた。

「この世に永遠なんてものはない。形あるものはいつか壊れる。」

この言葉、今でもどうしても、自分が死や後先の未来について考える度に今でも何度だって思い出される。

それは、有機物だろうが無機物だろうが、皆同じであることを、私が今時を得ていく度にそう感じるようになった。

あの電子の歌姫の初音ミクだって、オリジナルキャラクターのPVの動画が映し出されるテレビの山に押しつぶされたり、主への別れを最後まで叫べたにもかかわらず深刻なエラーによって理不尽に消失して、死んでしまった。

…しかし、いくらそんな理不尽な現実の世の中であろうとも、父さんはこれでも今でも常に頑張って前向きに生きている。まるで、家族を一国としてその家族という国全体を、体張って一生懸命に守って支えようとする王様のように。

そんな父さんの意思や心からは、「これからもどんなことがあっても、自分は前向きに生きていられる。」というかつての昔の自分がそう思っていたような自信があるのが、私には感じとれる。だって、あの人は、自分が面白く生きていられりゃそれで最高なんだ!みたいなことを言っていたのだから。

だけど、

一人で残された、この私は、どうなるのだ。

たった、砂漠の中で、これまで自分一人で手段を選ばずとも生きてこれている、この私は、どうなるのだ。

もし、私がバーチャルユーチューバーになることで、自分で考えた、オリジナルヨッシーちゃんとしての存在として生きていく、そんな私の夢が叶ったとしても、

父さんがもしそこにいなかったら、

私は、いつまでも悲しいままだろうな。

自分の夢が叶うところを父さんが見てくれるのを私は見れなかった。否、自分の夢がようやく叶って、その形となった自分の夢に自分がいつも励んだところで、そんな自分を父さんが見守ってくれるのをいつかは見れなくなるかもしれない。その時点に進んだところで、私は心臓あたりに悲しみという刃物が突き刺さった突き刺さったまま、一生をゆっくりと歩んでしまうのだろうな。

私は、自分の心がどれだけ痛がったまま壊れても、ヨッシーちゃんやリッパーサマがいるから、まだ頑張って生きていたい。むしろ、ヨッシーちゃんやリッパーサマのために、生きていたいと言う気持ちが強い。

もし私が、本当に私を理解してくれる、そんな理解者という仲間が0人のまま、自分一人だけで生きていかなければならない未来を歩んで生きていくことになったとしても、そんな状況の中で、誰かがこの私の心臓にいつの間にか突き刺さっているナイフをほんの一部限りでも引き抜いてくれるのであれば、ヨッシーちゃんでも、リッパーサマでも、人間でも、この際誰でもいい。

誰でもいいから、私に、ほんのひと時でもいい。ほんの少しでもいい。お願いだ。私が今こうして、生きているなら、誰か、私の体に気づかないうちに突き刺さってしまっている痛みと孤独と恐怖も引っこ抜いてしまって、死と同じように上手いことかき消してくれ。

その生きていたい願いを今日と明日への祈りとして願いつつも、ぬいぐるみのリッパーサマや、ぬいぐるみのヨッシーちゃんに、祈りを込めて、今日も明日も、リッパーサマやヨッシーちゃんと一緒に仕事に励んで頑張ろうと思う。

そう思いながら、今この時親が生きているうちは、俺はただひっそり、ゆっくりと、父親という老木のような存在の下で、自分が取り組んでいる仕事の訓練を平日5日間毎日励んで生きていくことに意識を向けようとした。

自分の心や世界、全てが、まるで何もかも枯れ果てて、砂漠に成り果ててしまっていく中、唯一まだ枯れ果てていない老木の下でこれからどう過ごして生きていくか、自分一人で考えていくようにしながら。

そう、今は親の下で、時には、ヨッシーちゃんやリッパーサマのそばで、私は生きていくのだ。

例え俺が一人でも、常にヨッシーちゃんとリッパーサマがそばにいてくれるなら、私はもう一人じゃないから怖くない、って認識させてくれるんだから。

その理由で…、私は、いままでも…、このときも…、これからも…、リッパーサマのぬいぐるみと、ヨッシーちゃんのぬいぐるみを常に、持ち歩いているんだから……。

ヨッシーちゃんと、リッパーサマが…、一緒なら…、怖くなんかない…何もかも…もう怖くないよ……。

……お休みなさい。